
作詞家の阿久悠さんが亡くなった。
他にも執筆業など忙しい人生を送られて来た彼だったけれど、
私の記憶の中では彼こそが、
「ゴット・ザ・作詞家」に相応しい人間で、
自分の子供時代は、彼の詞に触れない日は無い位、
大好きだった歌番組に出演している、歌手のテロップには、
「作詞家・阿久悠」の文字が、いつも燦然と輝いていて、
「作詞家と言えば阿久悠」と言う構図が、
小さな私の中にも出来上がっていた程、
その当時の彼の勢いは、留まる事を知らなかった。
先日、運転しながらラジオを聴いていて、
私が大好きだったジュリーが、もう直ぐ還暦を迎えると聞き、
「もうそんな年になるんだ」と、
自分でさえもう直ぐ39才にもなるんだから、
月日の流れとは何と早いものかと、思わず溜息が出てしまったのだが、
やっぱりその時代を華やがした、
代表者の様な人がこの世を去ってしまうと言うのは、
もの凄く淋しい感じがして、
人生と言うものの無情さを、ひしひしと感じてしまうのだが、
それでも彼が作った沢山の歌は、
これからも人々から愛され続けるのだと思うと、
ちょっぴり羨ましくもある、彼の音楽家としての70年の人生だった。
話は少し変わりますが、最近は歌番組を観ていても、
殆どがシンガーソングライターだったり、
歌手本人が作詞、或いはバンドのメンバーが作詞と、
売れている作詞家を思い浮かべようと思っても、
それは昭和の頃から存在する作詞家だったりして、
もはやこの職業も過去のものとなりつつあると思ってしまうのですが、
いつかの音コラムのBlogでも書いたけれど、
実は日本の『歌』において、一番重要視されるのは歌詞で、
それでも最近は軽視され気味と言うか、
リズム主体のメロディーに「合わせる・載せる」事を、
基本として書かれているのだろうと想像する楽曲が多くて、
その辺りも実は、音楽業界の衰退と、
全く無関係では無いと思うんだけれど、
実際の所はどうなのだろうか。
メロディーが複雑になればなるほど、
歌詞も多く、複雑になるのは仕方の無い事であって、
きっとそのメロディーは、
「今まで流行した事の無い、誰もまだ使っていない音階」などを、
意識して作られているんだろうけれど、
それこそメロディー限界説(死語?)では無いけれど、
たった2オクターブ(中にはもっと凄い人もいるけどね)程の、
人間の声の音域の中で、組み合わせ等そうあるもので無し、
まして決まった拍子の中でグルーブ感を出そうと思ったら、
サビは同じフレーズを繰り返す事が必然的に多くなり、
特にラップミュージックに顕著に現れていると思うけれど、
曲を聴いただけでは、
どんなグループが歌っているのか判らない程、
どの曲も似通っているような感じで
(音階が無いからまた、余計そう感じるのだろうが)
後はどれだけバックトラックで、
耳心地良いオケを作るかが、差の付け所なのだろうけれど。
多産系を自称する私でもたまに、
もう音楽なんて、全てのアイディアは出尽くしていると、
己の才能は棚に上げて、
曲作りを放棄したくなる時があるんだけど、
歌とはそんなにいつも、目新しいものでならないのかと思うと、
それもまた、かなり疑問に感じてしまう。
そもそもが著作権なるものの基準が良く解らない、
おバカで無知な私でありますが、
何小節目までは一緒のメロディーでもOKと、
昔バンドのメンバーから聞いた事がある気がして、
明らかにあの曲のあの部分から、
丸ごと盗んだと判断出来るのは論外だとしても、
私は今流行っている音楽を聴いて、
「こりゃ~あったらしいね~」なんて思う事は殆ど無くて、
日本ではかなり売れている、若手のバンドの曲を聴いても、
それが昭和に流行った曲の切り張りみたいに聴こえて来て、
まあ今の若い子達にはそれも新鮮に受け取られるだろうし、
私の長女にしても「この曲好き!」等と、
ふ~んやっぱりそうなんだと、
それはもう代々受け継がれて来た「血」の所為では無いかと、
思っちゃうんだけど、如何なものであろうか。
先程下の娘が観ていた3チャンネルで、
『ほねほねワルツ』なる曲が掛かっていて、
私は其処に出ている女の子達も、衣装も大好きで、
つい家事の手を止め、毎回のように見入ってしまうのですが、
あの曲もメロディーは全く違うけれど、
アレンジに関しては「めだかの兄弟」を、
モチーフとしているような気がしてならないし、
(そんないい加減な発言すると、
作家さんからこっぴどく怒られそうですが)
全く意識してない、聴いた事も無い、
音楽家さんがもしトラックを作っていたりしたなら、
それこそ正に「血」から生まれた作品なんだろうと。
多分どんなに若いアレンジャーさんでも、
子供の頃にあれだけ流行った「スイスイ」を、
聴かなかったとは思えないんだけど、
『ほねほねワルツ』の新しさは詞と衣装と振り付けであり、
トータルバランスでオリジナルだと、
新しいものにリニューアルしている気がするから、
私はそれは大賛成だし、逆に秋元康リスペクトと言うか、
「まだまだやるね~ちみも~」等と、
高め目線から讃えたくなる位、
良く出来た曲なんですよね。この歌って。
またまたタイトルから逸脱している気もしますが、
実は今私が作っている曲も、
一度ならず、没にし掛かっている曲で、
以前のBlogにも書いたけれど、
それはサビのコードが黄金率に基いていると言うか、
要は「有りがち過ぎる」メロディーで、
私は思わず自分が持っている音源を、
持ち出して聞き返してしまったのですが、
良く似ていると言うか、そっくりで、
おまけにそれ以外でも、何曲か古い洋楽にあった気もするから、
その日本人さえ「もしやパクリ」とか、
詮索したくなっちゃう位なんだけれど、
彼等もルーツミュージックを大切にしている人達で、
デビュー盤から「あ~これビートルズ!」って解る位、
露骨に影響されている音が透けて見える人達なんだけど、
それで非難めいた声を、聴いた事も無いし、
私は実際その歌が好きでどんな時でも良く歌ってました。
(だって本家は英詞で覚えられないんだもの<泣)
3コード、シンプルなメジャーコード、黄金率のメロディー、
これを真っ向から否定しているような感じさえ受ける、
最近の流行歌だったりするんですが、
古いものには良いものが沢山あって、
それを伝承して行くと言うのも、
また一つのミュージシャンの使命だと思うし、
私は未だ3コードが良く解らなくて(おいおい)、
あまりロックンロールとかブルースとか作れないんだけど、
聴くのは好きだし、その内消化出来たら絶対作ってやりたいと、
それとやっぱり昭和生まれなんで、
昭和歌謡の良さと言うのも、自分の曲に織り交ぜて行きたいと、
そう思っている次第でして。
その没にされそうだった曲なのですが、
何故歌う気になったのかと申しますと、
「私を歌って」と、ずっとテレパシーが来ていた等と書くと、
暑さに創作ノイローゼが加わって、
とうとうRiekoも、
いっちゃう所までいっちゃったかと思われそうですが、
(それ、正解です!<笑)
この曲半年以上も前の、ある日の真夜中に、
ワンコーラスだけ作って放置してあって、
その紙は、コピーペーパーだったりすると、
捨てちゃったりなくなっちゃったりするんだけど、
幸い(?)下着かシャツの中に入っている厚紙の裏に書かれてまして、
何か捨てるのに忍びなくて、ずっと洋服ダンスの上に、
他の置物と一緒に飾られてました。
んでたまに引っ張り出してみて、
「やっぱこれ、あの曲に似ているよな~」と、
後ろ髪引かれる思いで捨てようとするんだけど、
何故か出来ずに、だからと言って、
2コーラス目を書こうと思っても、
1コーラス目で殆ど言いたい事は言ってしまっているし、
大体タイトルからして、全然パッとしなくて、
「駄目じゃん!この曲」と見捨てていたのですが、
月日が経つにつれ、そのメロディーは私の中で膨らんで来てしまって、
知らない内に口ずさむようになっていて、
決定打だったのは、プレ王退会を決めた時で。(何だそりゃ)
実は以前にも、私は一度退会しているんですが、
その時はもう絶対戻る事は無いと、
それなりの覚悟をもし、そして今回も退会する事に決めたら、
もう3年も前の事なのに、
当時の退会した時の感情と映像が、
カラーではっきり浮かんで来ちゃったから、
それをそのまま2コーラス目の歌詞に持って来たら、
見事に嵌ったと言うか、恐ろしい位それは、
今の自分の感情にも近いものだったんですね。これが。
曲に関してのコメントは、
これ以上書くと面白くなくなっちゃうので、
後は公開した音源を聴いて貰って、
その人それぞれの感じ方で聴いて頂いた方が、
良いと思うのですが、
それ位、迷いの大きい曲だから、賛否両論、
好き嫌いもはっきり分かれるだろうし、
でも出来た曲は一度は必ず歌うと言うのが、
私のモットーでもあるので、もし良かったら聴いて下さい。
『輪廻の歌。』
まるで阿久悠に捧げる歌になってしまう位、
彼ほど歌詞と言う、一見簡単に見える作業に、
情熱を傾けた人はいないと思いますし、
きっと生まれ変わっても、彼は必ずまた、
音楽を愛し、人に夢を与える人物になると思うので、
今私は泣きたい気持ちでいっぱいなのだけれど、
今夜は彼の作った名曲を沢山、口ずさんで、
彼に「夢を与えてくれて本当にありがとう」と、
感謝しながら過ごそうと思っておりますが、
最後に一言。
「私がもし、来世で上手く歌手に生まれ変われたその時には、
是非あなたの歌を歌わせて下さい」と、
現世でも勿論勝手に歌うので、天国で聴いていて下さいねと、
心からお祈りする次第であります。